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2011’10.13・Thu

黄金千貫と鳴門金時

今日は終日農作業 胡麻の刈り入れと薩摩芋の残した畝の掘り起こし 辛味大根の種まき作業
里芋

ウコン

パッションフルーツ 夏開花 秋結実 2度目は酸味が強い

立てかけてあるのが胡麻 赤いサツマは鳴門金時

黄金千貫 たしか「森伊蔵」がこの芋を使用 この焼き芋は栗より美味

細長いのが鳴門金時 この芋も栗よりおいしい

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茄子の水やり シクボの畑
(チョモ)

「天留古」(てりこ)
サツマイモは中南米が原産地とされスペイン人 ポルトガル人によって東南アジアに渡り中国を経て1604年(慶長9)明への進貢船事務職長の野国総管が福建省から琉球に持ち帰り儀間真常が拡め琉球を飢饉から救った.....1732年(享保17)冷夏とイナゴ ウンカの大発生で西国46藩は収穫量27%餓死者12,000人(川実紀969,900人)に及び将軍吉宗は儒学者の青木昆陽を起用しこれ以後東国にも薩摩が普及した。幕末明治期に川越の赤沢仁兵衛が収穫量を増大させた。享保の大飢饉の前1723年(享保8)八丈島に甘藷を移入したが実用に至らず1811年(文化8)新島より八丈島に赤甘藷が移入された。三宅島に甘藷が伝来したのは1735年(享保20) 芋焼酎が三宅島で最初に造られたのが1853年(嘉永6)で「八丈流罪船待流人庄右衛門教授の上甘藷焼酎初造る」と三宅島歴史年表にある。青酎はじめ島焼酎はどれを飲んでも何故か美味しい。 大島では豊後(大分)出身の栗本佐次郎が漁労のため来島 数年間を大島で過ごし嫁を迎えて国に帰ったが再び来島 その折に「天留古」という甘藷を持参した。日照りにも長雨にも強くそのうえおいしかったので今也殆洽干全島(今やほとんど全島にあまねく)となった。栗本佐次郎記念碑(てりこの碑明治四十三年八月建之)は岡田の曹洞宗「福聚寺」の境内にある。

丹宗庄右衛門1812(文化9)~1875(明治8)薩摩国出水郡阿久根の出身 藩御用達の廻船問屋 広東繻子などの藩命密貿易の科で八丈島に15年の刑で遠島 日和待で三宅滞在中に甘藷焼酎法を教えた。八丈に蒸留器を田舎から取り寄せ製法を伝えた。 近藤富蔵の「八丈実記」に 米穀一粒の費やしなく五ヶ村に島これを習ふて農作家作に大益を得た とある。徳を讃えた「島酒之碑」が大賀郷護神山に建立された。鹿児島県曽於市 木場酒造「丹宗」を賞味したい。今でも八丈は焼酎造りが盛んで蔵元5社が味を競い合っている。
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チョモさんへ
テリコの話題がダブってしまってすみませんでした。芋が載っていたので、それなら「テリコだ」そう思った次第です。
確か初日のブログでは「銀紙焼き芋」の写真で終わっていたように覚えていて、まさかその下にテリコや焼酎の話があるとは思わず同じ話を書いてしまいました。
北の山の樋口・岩崎さんなどが今でもテリコを作っています

ホットトギス:2011/10/18(火) 11:35 | URL | [編集]

ホットトギスさん

浅間山の山麓で少年時代 麦飯とサツマと つみれ(小麦粉)が主食 おやつは大根 胡瓜に味噌を塗って食べていました。火山荒地で蕎麦がきもよく食べました。サツマ ゴボウの天ぷら 潰した鶏 うさぎは ハレの日にしか口に出来ませんでした。シュクボの畑は地味が肥え肥糧を与えなくても でっかい芋になってしまいます。
                      チョモ

チョモ:2011/10/19(水) 14:49 | URL | [編集]

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