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2013’06.22・Sat

伊豆大島方言「しまことば集」の記事

藤井伸先生が書かれた「しまことば集」の本の発行に関する記事が東京七島新聞(6月18日付)の載りました。
大島文化伝承の会事務局(元町の藤井工房ードーム型のあんこ人形資料館)にて頒布中です、1冊2000円 ℡2-1628
伊豆大島藤井工房のHPの文化伝承コーナーに詳しく掲載されているので興味有る方はご覧下さい

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2013’05.13・Mon

しまことば集 伊豆大島方言 

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いい本がでました。藤井 伸さんの遺稿「しまことば集」
ゲラ刷りの校正を見せていただきましたが 教え子にあたる 竹本葵太夫の手の入れようが これまたすごい
洋画家 中出那智子さんの挿画 編集者の藤井虎雄さんの編集後記を載せさせていただきました。

一部を紹介しましょう。
カタノシマ
大島から見て利島、新島、式根島、神津島をさして言う語。カタとは、一定の方向・方位・場所・地点  などを示す言葉として古くから用いられている。また「カタは西を意味する語であった。大島から見て  西の島はカタノシマである」と説く方もいたが、残念ながら未だ特定するに至っていない。
 
サンジャフ(ク)
H音化。三尺の長さに切った細工・刳物材。三尺は一本一本末口を計らなければならない大変な作業。  母の実家の爺によく現場に連れて行かれ、棚杭や藤蔓探し、計測は無理だったが、結構楽しんだ。子供  でも結構労働の助け手にもなった。
[参考]東海汽船の待合室に向かって下って行くとロータリー。直前の左角(前に浜宮様鎮座)一帯は金  光寺で、高い石垣に囲まれていた。その真向いは現待合室まで下條藤井家、その間を長沢が浅い砂混じ  りの窪地を作って下っていた。金光寺の石垣には建築資材のコマイ竹(漆喰壁の下地)が一面に立てか  けられて天を突き刺し、その前にはこのサンジャクが長々と列をなして積み重ねられていた。中央部は  長沢の窪地を避けて薪の山である。ここから前浜沖がかりの船まで、さんざめく大島アンコたちの手間  風景が展開されたのである。 
                                          (チョモ)

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2013’03.31・Sun

木村五郎・農民美術(あんこ人形)資料館たより15号

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藤井工房
(チョモ)

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2013’03.28・Thu

昔の写真

















週末大島暮し
squat-yamaさんのyama′s noteより掲載させていただきました
もく星号墜落事故
(チョモ)

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2012’12.21・Fri

木村五郎・農民美術資料館たより14号(2012.12月)

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(チョモ)

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2012’12.02・Sun

史跡見学会 泉津地区

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昭和11年 東京湾汽船発行

石の反り橋 天文21/09/19(1552/10/17?)噴火溶岩流 薬師堂祈祷札(島最古の記録は郷土資料館に展示されている)

溶岩流は27日の夜半に海岸に達した 石の反り橋 桜株近く 椿園 海浜植物群落はY3L  動物園はY1L(安永溶岩流)

「右さくらかぶ 左ぎょじゃ」「沢岩太郎」

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校歌斉唱


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観音堂 阿弥陀如来立像 大日如来坐像(2体)安置

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泉津「かやぶき」(坂下家)屋敷内道標 「右石の反り橋 左桜株 泉青」
(チョモ)




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2012’11.17・Sat

井澤 武さん浅野 豊さんの背負子

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差木地の井澤 武さんは100歳 泉津の浅野 豊さんは86歳です。2011/08/26日の「ショイコとササグ」をご覧ください。









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2012’06.15・Fri

行者祭

行者浜が尽きるところに 櫛の峰 がそそり立つ トンネルの左の海食崖に行者窟がある





2009年6月15日

行者のいわや









2009/06/15













前鬼 後鬼を左右に従えた 役行者の石像(泉津 三原神社寄宮)

(チョモ)


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2012’05.01・Tue

藤井工房(あんこ人形資料館)に展示の昔の絵葉書(提供 阿部比左志さん)

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葬式の時に着飾った女は紫縮緬の鉢巻をして長く後ろに垂らす。帯は前帯姿といって丸帯を前で結んだ。男は縞の着物に羽織の着流しであった。

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岡田の葬式風俗(阿部比左志さん談)
(チョモ)


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2012’01.06・Fri

所変われば品変わる アルプス山麓の背負子

夏 「しょいこ」の研究に郷土史家の樋口秀司さんを訪ねてみえた瀬戸内海歴史民俗資料館学芸員の織野英史さんから賀状をいただいた。アルプス山麓(オーストリア スイス イタリア)の背負子の写真.....形は日本のものと ほとんど変わりはない 専門家からみるとだいぶ違うのでしょうか。(織野さん早々に賀状ありがとうございました。8年らいどなたにも年賀状を書かない無礼者です。ヨーロッパアルプスの写真を載せますので堪忍してください)

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トレ・チメ・ディ・ラヴァレド(ドライ・チンネン)


マッターホルン


中央下がヘルンリ小屋 その上の稜線を登る


モンブラン 左が国際山岳ガイドの佐々木慶正さん
 
背負子

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2011’12.29・Thu

大根の甘酢漬け

水洗いした大根を5本づつ交互に詰める 塩は大根30本で1.5kg

大きな重しで5日間塩漬け

上がった塩水を捨てる

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甘酢で漬けなおす 酢2.7L 砂糖1.8kg

1週間後食卓へ

すこし塩が多すぎたので微調整


(チョモ)

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2011’12.12・Mon

椿 炭 ③沖山窯の窯開け

ねらしが 終わって いよいよ窯開け
ねらしが終わって いよいよ窯開け

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下蓋だけで60kg

窯の中

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椿炭

通販いたします

椿炭 ①
(チョモ)

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2011’10.21・Fri

椿炭 ①立木と差し木の窯入れ

差木地にある沖山炭窯の立木の窯入れを手伝った 立木は約1ヶ月乾燥した直径10cm程のヤブツバキ 窯の天井と立木の間に通気用に入れる差し木(上げ木)も椿 立木の不足で作業中断(もったいないからぎゅうぎゅう詰めに立木をいれる) 島に300万本の椿があるとはいえ貴重な原木を入手するのが一苦労 炭材はクヌギ コナラ カシ クリ ヤブツバキ 湯炭は断面が菊花紋になる椚(クヌギ)が珍重されるが島にはクヌギ コナラが自生しない。排煙口の上に陶製の煙突を立て 口炊き(燻 いぶし)を三回約8時間すると窯の後部の差し木に着火し炭化は窯奥の天井から窯底へと進み焚口に前進する。煙の色は黒色→褐色→淡青白色に変わり 臭い 排煙口温度も変化する。約70時間を経て通気口 排煙口を密閉し 炭材の消火に入る(陶器の還元焼成に似る)窯の冷却を待って出炭する(茶の湯の里は椿炭 窯元 沖山公彦さん)
沖山炭窯
差し木に使うヤブツバキの細枝
差し木(上げ木)用の椿の枝

窯の焚き口
立木の上に差し木を敷き詰める
窯の内部 上げ木(差し木)と立木

排煙口の蓋

排煙口に煙突を立てる

煙突上部の屋根

椿炭 管炭~丸ぎっちょ 前回焼いた差し木
(チョモ)

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2011’10.17・Mon

天留古(テリコ)

島の中でも地域により異なるが大島の畑は「砂地」が多いような気がする。砂地だと芋類が良く採れる。南部に住むチョモさんの畑のさつまは「鳴門金時」、土は砂地というより湿った土に見えます。
鳴門金時は数が多くできないが旨い、と聞いていますが、チョモさんの赤っぽい芋は丸々と肥えています。
私が今年作ったイモは「ベニアズマ」あと3列収穫を待っています(写真のとおりで砂地です)。

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イモのデーター

大分県佐賀関の粟本佐治郎という人が明治23年に漁業で来島し、岡田の人と結婚して住み着いた、その子孫は大島に在住している。佐治郎は一度大分に戻り「天留古(テリコ)」という大変甘みのあるおいしくて貯蔵にも耐えうるさつま芋を持ち帰り広めたので、その後全島で栽培されるようになった。
平成6年に岡田の川島シマさん、小坂でんさん姉妹が5個のテリコを残していることがわかり、譲り受けて苗を作り、地元の中学校の体験学習「さつま栽培」で作った。
これをきっかけにして種芋として広がり、今でも貴重種の「テリコ」を数名の方が種を絶やすことなく栽培を続けている。
大正4年発行の『伊豆大島の事情』によると、当事の品種は「四十日、朝鮮、川越等種々あれど、主にテリコを栽培する」とあり、常食の他に横浜などへ輸出していたことが述べられている。

                       「伊豆大島を知る事典 編者 樋口秀司」より要旨を引用

 いつか「鳴門金時」も「テリコ」も作ってみたいが芽だしや種イモの管理が難しそうですね。

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2011’10.13・Thu

黄金千貫と鳴門金時

今日は終日農作業 胡麻の刈り入れと薩摩芋の残した畝の掘り起こし 辛味大根の種まき作業
里芋

ウコン

パッションフルーツ 夏開花 秋結実 2度目は酸味が強い

立てかけてあるのが胡麻 赤いサツマは鳴門金時

黄金千貫 たしか「森伊蔵」がこの芋を使用 この焼き芋は栗より美味

細長いのが鳴門金時 この芋も栗よりおいしい

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茄子の水やり シクボの畑
(チョモ)

「天留古」(てりこ)
サツマイモは中南米が原産地とされスペイン人 ポルトガル人によって東南アジアに渡り中国を経て1604年(慶長9)明への進貢船事務職長の野国総管が福建省から琉球に持ち帰り儀間真常が拡め琉球を飢饉から救った.....1732年(享保17)冷夏とイナゴ ウンカの大発生で西国46藩は収穫量27%餓死者12,000人(川実紀969,900人)に及び将軍吉宗は儒学者の青木昆陽を起用しこれ以後東国にも薩摩が普及した。幕末明治期に川越の赤沢仁兵衛が収穫量を増大させた。享保の大飢饉の前1723年(享保8)八丈島に甘藷を移入したが実用に至らず1811年(文化8)新島より八丈島に赤甘藷が移入された。三宅島に甘藷が伝来したのは1735年(享保20) 芋焼酎が三宅島で最初に造られたのが1853年(嘉永6)で「八丈流罪船待流人庄右衛門教授の上甘藷焼酎初造る」と三宅島歴史年表にある。青酎はじめ島焼酎はどれを飲んでも何故か美味しい。 大島では豊後(大分)出身の栗本佐次郎が漁労のため来島 数年間を大島で過ごし嫁を迎えて国に帰ったが再び来島 その折に「天留古」という甘藷を持参した。日照りにも長雨にも強くそのうえおいしかったので今也殆洽干全島(今やほとんど全島にあまねく)となった。栗本佐次郎記念碑(てりこの碑明治四十三年八月建之)は岡田の曹洞宗「福聚寺」の境内にある。

丹宗庄右衛門1812(文化9)~1875(明治8)薩摩国出水郡阿久根の出身 藩御用達の廻船問屋 広東繻子などの藩命密貿易の科で八丈島に15年の刑で遠島 日和待で三宅滞在中に甘藷焼酎法を教えた。八丈に蒸留器を田舎から取り寄せ製法を伝えた。 近藤富蔵の「八丈実記」に 米穀一粒の費やしなく五ヶ村に島これを習ふて農作家作に大益を得た とある。徳を讃えた「島酒之碑」が大賀郷護神山に建立された。鹿児島県曽於市 木場酒造「丹宗」を賞味したい。今でも八丈は焼酎造りが盛んで蔵元5社が味を競い合っている。
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2011’08.31・Wed

バータゴ様

安永の大噴火(1777/8/31~1792 安永6-寛政4)の溶岩流と深い関わりをもつ三つの祠を 野増の人達はバータゴ様と呼んで崇めている。阿地古の沢をはじめこの方面へ行くことを「バージホへ行く」といっている。バータゴ様はもと 茅を結わえたボッチャであったが 近年になって石祠やコンクリート造りの祠になり鳥居を建てたりしたようである。(島の史跡 P52)ここで紹介するバータゴ様は宮の沢橋横の旧馬道(三原登山道)を上がり間伏林道の交差点より300m程下った左手にある。
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 安永噴火鎮静祈願「バータゴ様」
 岡田 八幡神社のイボッチャ
(チョモ)

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2011’08.30・Tue

二番が沢を遡上して二十三夜様へ

松の窪の上部にN1期(12C 野増層1)に形成されたと考えられる2つのスコリア丘があり下の噴石丘から流れでた2本の溶岩流の北西側が二番が沢である。沢を遡ってみた。上流は数mの段をなし熔岩が厚く入り込んでいる。やがて右岸にシイの大木があり その根の下が洞となって抗火石で造った龕の中に「二十三夜様」(海難救助の神)の石祠が祀られている。更に20m程遡るとスラブ状の溶岩流をしっかりと抱きかかえるように根の一部が露出したシイの巨木がある。
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次回は沢がなくなるまで遡ろう
(チョモ)

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2011’08.26・Fri

ショイコ(オイコ)とササグ

郷土資料館に瀬戸内海歴史民族資料館の織野英史さんが背負子の研究のために来館した。織野さんは背架・農具研究の第一人者で差木地の井沢武さん(99歳)から熱心にヒヤリングした。
 井沢武さんの話を熱心に聴く高松からきた織野さん
 井沢武さんが10年程前に造った背負子
 縛り縄 背負い縄の使い方実演
 直島諸島石島の負子   豊島・小豊島の負子論文
 アサヒ写真ブック50 伊豆大島
 岩波写真文庫160 伊豆の大島 イタダキを島ではササグという
 ササグ  物を頭に載せて運ぶ。
(チョモ)

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2011’08.21・Sun

差木地の切替畑と背負子(ショイコ)の話 

昨夜 ベットの中で読書中の 差木地の井沢 武さんを訊ねた。翁は来年の4月3日で満100歳を迎える。チョモは知りたいこと 聴きたいことがあると 真っ先に生き字引の井沢さんを訪ねることにしている。井沢さんは自宅から1km一寸離れた畑の中の工房に毎日白髪をたなびかせ自転車で通っている。翁の話の要約.....
地主から3年畑を借りると ハンノキ(オオバヤシャブシ)とオオシマザクラの種を蒔く 借地に春 薩摩苗を植え秋 芋を掘ったあとに麦を蒔く 3年経って畑を返すときに育った櫻とハンノキの三尺苗を植えて返却する(事典では切り替え畑とは森林を伐採しあとを畑地として粗放な農作を行い地力が衰えると一定期間休閑しこれを繰り返すshifting fieldとあります)
背負子は主にふたとうりの使い方があった。カンスゲ等牛馬の飼料運搬 炭焼きの原木運搬 180(長さ)×90cm(高さ)(1棚)になるように10数本の雑木を背負子に括りつけ運んだそうです。(差木地はその昔 漁業権を持たない山方であった)1棚で7~8俵の炭が出来た。最後に3尺の話 素性のよいミズキ(3尺と呼んだ)椿 櫻を 最長3尺 2尺 1尺5寸 1尺に輪切りして出荷 石高計算された。井沢さんによると枝と枝の間隔が丁度3尺に伐れたのでミズキを3尺と呼んだそうです。
お元気な井沢武さん(99歳)
井沢さんお手製の背負子
ABC_1753_convert_20110821133848.jpgハンノキ(大葉夜叉五倍子オオバヤシャブシ)根粒菌と共生し窒素固定 古くから荒地 海岸砂防の緑化用に植栽された 鈍色を出すタンニン系染料として果穂が用いられた 
ミズキ(ミズクサ)こけし タタキ独楽の細工材として出荷

差木地は山方 (チョモ)

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2011’08.17・Wed

小学校の統廃合 2008/04/01 差木地小 波浮小→つつじ小学校

2008/3月廃校になった旧波浮小学校
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 一年生の教室
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波浮港現代美術展メイン会場 ~8/28
 卒業制作壁画
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 杉浦 元気しているか
 
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学校設置条例の改正に伴い つつじ小学校にさきがけて 2005年4月に元町小 野増小がつばき小学校 岡田 泉津 北の山が さくら小学校に統廃合されました。 再利用の大イベント「波浮港現代美術展」が廃校になった旧波浮小学校で開催中です。坂口啓子さん 高田芳樹さんをはじめ実行委員会の皆さん 出品された作家の皆さんに最大の敬意を表します。(チョモ)

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2011’08.04・Thu

茄子の水やり  シクボの畑

借りてるシクボの畑
 水と肥料が大好きなナス
 去年 胡麻 5合収穫
 枇杷に絡みついたパッションフルーツ
 赤くなり皺がでたら食べごろ 半裁して匙ですくって食べる
 雄花
 カボチャの雌花
雄花をむしって雌花に挿し込む
シクボの俯瞰写真が撮れません これが精一杯
 伊豆大島火山地質図(産総研)川辺禎久
借りている畑は三原のカルデラが出来るずーつと前の側火山あとです。鳥瞰画面がありませんが畑はタフリング爆発角礫岩で取り囲まれています。地質図の黒丸三角印は気象庁の地震計 傾斜計です。シクボ下のイマサキ 左上の 岳ノ平 小穴 大穴が 1421年噴火の側火山です(Y4 湯場層4)この噴火で松ノ窪上部北西の割れ目からの溶岩は間伏に流れ岳ノ平からは差木地に流れました。岳ノ平は形のよいスコリア丘です。島民が一ヶ月間島外避難した1986年(昭和61)の三原山中噴火は565年振りの側噴火を伴いB火口列 C火口列ができました。シクボの畑は前の耕作者が沢山堆肥を入れ地味が肥え立派な野菜が沢山収穫できます。

(チョモ) 

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2011’08.01・Mon

元町で壺がはやばや6個出たそうだ  

八重川遺跡 発掘調査後に教職員住宅が建設されます
壺が出たという噂を聴き日曜日に許可無く発掘現場で撮影した。場所は塩屋(海の精)の下。型式学と層位学で相対年代を同定するのでしょうか。型式で行くのでしょうね。(きっと古墳時代の壺でしょう?)ABC_1231_convert_20110801090645.jpg
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元町の集落は むかし 「シモタカブラ」にあった。佐久川から淵の沢までの一帯。文禄のころ(1592~1596年 文禄の役があり 5年夏には(慶長)伊予地震 豊後地震 伏見地震)連日降り続いた豪雨で三原山腹が決壊 ラハールとなって集落を押し流した。生存者がいまの元町地域に集団移住したのが新島村の始まりであった。その下高洞の海食崖から縄文早期前半(約8,000年前)の平坂式土器(横須賀市平坂貝塚)や神津島の黒曜石やイノシシの成獣頭骨等が出土した。工業技術院地質研究所(産総研)の一色直記博士が貴重な土器を発見され「下高洞遺跡」と名付けられました。(一色先生の火山論文はガイドのバイブルです)1978(昭和53)01/14日伊豆大島近海地震で崖の一部が崩れ土塊から椿の葉の化石が発見されました。洞穴の天上「カタ土」に椿葉の化石があるということは1万年前から大島には「椿」があった事になります。うららかな凪の日に三浦半島周辺の夏島人がウリボウと新妻を丸木舟に載せ遠出して大島に辿り着いた。あまりに住み心地が良いのですみついた などと想像すると楽しくなります。
(チョモ)
縄文時代区分
前半期(草創期15,000~11,000年前 早期11,000~7,000年前 前期7,000~5,500年前 中期5,500~4,500年前)
後半期(後 期 4,500~ 3,200年前 晩期 3,200~2,800年前)

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2011’07.24・Sun

波布比命神社の祭礼(7/23~7/25)

(1703)元禄16年11月22日夜の元禄地震で津波が押し寄せ差木地村南磯の波浮の池が海と繋がった....伊豆国大島差出帳(寛延2年 1749年) この港口西岸の森に鎮座している社が大島に3社ある旧郷社の一つ「波布比命神社」ハブヒメノミコト神社。祭典は初日に幟を村内2ヶ所 社前に壱ヶ所たて......(23日お旗立て 夜宮祭事 奉納踊りと港町パレード踊り)(24日は式典と 神輿獅子舞が各家を廻る)(25日お旗おろし)...3日間の波浮の夏祭りです。
奉納踊りを紹介いたします。神輿 獅子舞はチョモの都合で割愛(三原カルデラ内のサクユリ観察会参加) 以前の写真を搭載いたします。
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(チョモ)

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2011’07.12・Tue

もうすぐお盆

新盆とメドハギ・・・伊豆大島雑記帖 198から Morichan

 ・・新盆(大島の盆は新盆で7月)を迎えられるA氏から「ミソハギの育成地を知らないか」という問い合わせがあった。植物に詳しい3人の識者に尋ねたが島にはないという回答だったそうだ。ミソハギは高山に生育するヤナギランを小型化した姿と花で、ボクも島で見かけたことがない。ふと、むかし盆に使用するためババアがミソハギと称してメドハギを採るのに同行したことを思い出した。おそらく父の没した8才時の淡い記憶なので確信がなく、歩きながら見たような場所を訪ね現物確認し、うろ覚えとほぼ一致したので、その旨と生育場所数箇所をA氏に報告した。A氏は現物を採取しボクに、そして和尚に確認し、盆の儀式に役立ったという。

                                

ここからは管理人です

明日がお盆の入りです、夕方に迎え火をします、16日夕方に墓参りをして送り火でご先祖さんを送り出します。私が子供の頃には仏壇にほおずきやさといも、なすで作った牛などを供えたものですが今は迎え火と送り火だけしています。サトイモの葉っぱの上に脂松を薄く砕いて燃やす、葉っぱの上には野菜(インゲンなど)を置く、祖父母・父母・兄が並んで天にゆらゆらと昇ってゆく姿を「また来年ね」といつも見送ります。
新仏のある家(元町)では6月30日に杉の生木(2メートルくらい)の迎木を立て、迎灯篭を吊るして灯明を灯して新仏を迎える。かつては共同井戸の清掃を13日に行なっていたそうです。

 Morichanが思い出して書かれた「ミソハギ」と「メドハギ」の写真を載せてみます。

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           ミソハギ


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           メドハギ

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2011’07.08・Fri

伊豆大島吉谷神社正月祭の記録

伊豆大島吉谷神社正月祭は不定期(だいたい3年か4年に一度開催)で吉谷神社に神子舞と踊りが奉納されます、前回は平成21年に行なわれました。
唄う人、踊りを教える人、神子舞を教える人、どこかの神事のように50年に一度では生涯で一度しか遭遇できないことになります、4年に一度でも正確に伝えてゆくことは難しくなるのでしょう、唄や踊りが出来ない氏子でも何とか文章や画像で吉谷神社の正月祭を残してゆけないか、有志でそんな試みをはじめてます。まつりの由来などは舞台出演した「第59回全国民俗芸能大会」を参照してください。







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2011’05.14・Sat

伊豆大嶋 貞享の噴火と元禄地震

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伊豆国大嶋差出帳(寛延二年1749) 岡田古文書より

大嶋貞享の大噴火は天和四年(1684)子年の二月十六日夜より始まった。貞享を経て元禄三年まで七年間山焼きが続いた。この噴火で三度のお救い米がありました。天和四年には男一日米五合 女二合五勺 七十日分。貞享三年 同じく二百日分。貞享五年辰年 同じく百十日分

天和四年八月(4/2/21日に貞享に改元しているので正しくは貞享元年八月)新嶋村(元町)の津波被害 船六十艘余 人四人 家六十軒余 大嶋五ヶ村(現在の元町 岡田 泉津 差木地 野増 波浮は1800年開村)殊の外困窮し百両借入 元禄地震(16/11/22日夜)岡田村津波被害 船十八艘 人五十四人 他に流人二名 家五十八軒 元禄十四年小長様に大嶋に船入の湊が無い旨 報告されている(差出帳)その後

元禄十六年十一月二十二日夜の元禄地震で津波が押し寄せ差木地村南磯の波浮の池が海と繋がった...............

(波浮港は9世紀にマグマ水蒸気爆発で出来た火口湖といわれています。二子山山麓南西の側噴火 波浮港の爆裂火口 北北西のスリバチ火口が生じたN3b(野増層3.0)部層の上に神津島天上山噴火(838/7/29)の白い流紋岩質火山灰薄層が挟まれている。1800年上総国植畑村(君津市植畑)出身の秋廣平六が開削 波浮村を作った。 外海と繋がったことにより他の島々から江戸行きの船が日和待ちのため停泊するようになりました)チョモ

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